タリーズコーヒー創業秘話 すべては一つの作り話から 最終章

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このブログの反響が大きいせいでしょうか?
先日、再び取材の依頼を受けました。
私は「真実」を語る身ですので、もちろん快くお受けしました。

ところで「ビジネスパートナー ミッキー」についての最後の締めくくりです。私自身、この章にはひどく傷つき、法的措置をも辞さない覚悟の為、長めに書き綴っています。(ある意味、私と知り得る名前を無断で使用し、しかも事実無根の出来事を書き連ね、著しく名誉を傷つけているこの章がなければ、私は沈黙を貫いていたでしょう。)それは一般の方を含め、私を昔から知っている方々や友人、家族、ニュージーランドで共に過ごした、または現在も交流を続けている「友」の為に、”「真実」を語りたいから”なのです。

「私はこの本に書かれているような人物ではない!」と・・・。

この本には続いて私の父が登場してきます。

「私(ミッキー)が店を飛び出して....彼の父親から電話があった」と書かれています

「ロコ・トレーディング」の役員退任と負債の返済、連帯保証人、及び担保については、既に弁護士さんを通じて書類が作成されており、それにお互いサインをして合意を得てはいました。しかし、肝心の返済方法や金額等の細かい部分がいつまでも放置されていたので、私達当事者同士では「感情のぶつかり合い」になってしまう為、彼は当時会計事務所に勤めていた北島(三和銀行同期;後にタリーズの会計担当)を連れて、こちらは私の父が間に入り、話し合いを進める為でした。
つまり、彼らが私の実家に来た時には「返済方法」(個人的にタリーズに出資している現金の部分の返済計画)を承認する為のミーティングでした。その前の時点で私も銀行員をやっていましたから”急に担保を抜く事も出来ないし、仮に会社の役員を辞任しても連帯保証人という責任は負わなければならない”という知識くらい、当然ありましたからね。

この本には「すぐに私は彼の実家に飛んで行った」と書かれてありますが、下手をしたら何時まで経っても来なかったでしょう。すごく「不誠実」でした。ですから冷静な私の父に頼んで、呼んで貰ったのです。しかもまず、会計事務所の北島に頼んで、やっと実現したのです。彼はそれ程、無責任感だったんですよ。

「私はかなりの悪者扱いである。」と書いてありますが、その通りだったと思いますね。このブログを読んで頂ければ分かると思いますが。

先日の、彼からの電話でも追及した点なのですが、
この本には「ミッキーはその後.....1年後彼がタリーズ本社に現れたのだ。私は外出して会ってはいないが、応対した社員から話を聞いて驚かされた。」とあります。

事実はこうです。
私はNZの永住権の書類にサインを貰う為、彼とアポを取り、実際に彼と本社で会いました。そして目の前で彼にサインを貰いました。その間、15分程度でしたかね。それが、私がタリーズを完全に去ってから、今日までで、唯一の面会です。

この件を先日の電話で問い詰めると、彼は、YesでもNoでもない答えをして、とてもバツが悪そうでした。彼のサインは今もNZの移民局の書類倉庫に眠っていますから、絶対にNoとは言えません。

そしてこの本には
「私が(ニュージーランドでサーフィンする)と言い残して、行方がわからなくなった」とか
「オリンピックの出場を目指して野球チームのコーチをしている」
なんて書いてあります。

「ニュージーランドでサーフィンする」
そんな暢気な気持ちでニュージーランドに来た訳ではない事は、前述しました。こちらで一度もサーフィンをした事はありません。
”こんな事”を書かれているなんて夢にも思いませんでした。

「野球のコーチでオリンピックを目指す」

私はニュージーランドで野球を続けています。しかしこの国は「ラグビー王国」、そう!オールブラックスの国なのです。ですから野球は日本の様に、国民的スポーツではありませんし、オリンピックなんて(もう種目から無くなってしまいましたけど。)到底ありえない、「マイナーなスポーツ」なのです。しかし、ソフトボールは世界でも有数の実力を持つナショナルチームが存在します。が、なかなか野球にまでは発展しないでいます。

2,3年程前、私の住むここオークランドに、サッカーの元日本代表、中田英俊選手が楽天の田中選手(マー君)を呼んで、彼に”こちらの数少ない少年野球チームの野球指導を体験して貰う”という、興味深い日本の番組の撮影がありました。
その番組のコンセプトは、”スポーツを通じて世界を理解しよう”といった感じでした。田中選手と言えば、日本では超有名なプロ野球選手なのですが、野球が殆ど知られていないここニュージーランドの子供達にとっては「ただのスポーツ選手」と言うか「、単なる野球の上手なお兄さん」くらいにしか写らなかった事でしょう。
この番組で田中選手は「世界の中の野球というスポーツの存在」を実感していましたし、中田英寿元選手とのインタビューも印象的でした。

その位、ニュージーランドでは野球は「マイナーな存在」なのです。シニアチームがオークランドで6チームほど、夏のシーズンのみリーグ戦をやってるような感じです。

野球の現状はさておき、「私が野球が好きな事」はおわかり頂けたでしょうが、問題は彼の言うように「私がオリンピックなどという、とてつもないバカげた夢を持っているのか?」という事です。
そして彼は「そんな彼がお堅い銀行員だったというのは、読者にとっては信じ難い話かもしれない」と続けています。

これは完全に誹謗中傷ですね。

私はこの「コキ落とし」を”絶対に許しません”。

さらに最後にこう締め括っています。

「...彼の好物のステーキとバドワイザーでも前に、昔話でも出来たら楽しいだろうと思っている。」

私はステーキは好きですが、今でもお酒は飲めません。銀行員時代、サラリーマンの宿命として酒の席に毎回出て、無理して飲んではいましたが、彼とロコ・トレーディングとして新たな出発をしてからは、例えタリーズやダンケンズとのミーティングの時でも(日本の様な「俺の酒が飲めないのか?」的な文化が欧米にはありませんから。飲まなくてもOKでした。)”一度も飲んだ事が無かった、私が酒を好きではなかった”事を、彼は知ってるはずです。先日の電話の時にも彼に言いましたよ、「酒が飲めなかった事」を。

つまり、最後の最後まで「捏造」してある事を理解して頂きたいのです。

彼は9月28日の電話でこう言いました。

「日本に帰ってくる時は、電話して来てくれよ。飯でも食って話をしよう!」

これは前回の週刊文春の記事の影響力を感じ、13年振りに親しげに、でも下手(したて)にNZの自宅まで電話をして来て、私の”御機嫌取り”をする為のものでした。

「この本の存在が消せないままでは、会う気も無いし、話す気も無い。とにかくこの本をどうにかしろ!話はその後だ!!」と私が返すと、「携帯電話の番号を渡しておくから。」と彼は言い、
「そんなのは必要ないし、連絡もしない。」と再度断ると、松田は
「嫌われちゃったのかな?携帯電話の番号も受け取って貰えないのか。」と残念そうに言い、最後に更に「議員会館に住んでいるから、日本に来たら寄ってくれ。」と本当にしつこかったです。
私は「じゃあな。」と言って電話を切りました。

この電話は、とても前回の週刊文春でのコメント「あの本が全てです。」とか、「彼自身のブログで発言している内容」と大き”「乖離”していると思いませんか?

私はこのブログで、多くの人達から勇気と声援を頂いています。
「真実」を告白して、あの「すべては一杯〜」という捏造本の撲滅を目指します。


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ニュージー系カフェ日本上陸 KERI KERI<ケリケリ> 

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本格的ニュージー系カフェとして、私がプロデュースする

     Cafe&Bakery KERI KERI<ケリケリ>

ケリケリ

が福島県の福島市にオープンする事になりました。場所はダイユーエイトMAX店(現在建設中):ワーナーマイカルの映画館のあるビルの一階(旧さくら野百貨店跡地)です。

ケリケリ1号店ビル

兼ねてからネット販売してきたMAXコーヒーと商品開発を行い、この店専用のオーガニック豆のオリジナルブレンド、そして原産国別オーガニックのコーヒー豆(現在4種)を加え、日本初上陸ニュージーランドのフラットホワイトを基幹商品とした商品構成。そして国産小麦のみを使用した天然酵母の美味しいパン屋さんのコラボレーション。
福島県郡山市のガーデンレストラン「さらら」を経営する(株)キオラガーデンさんの協力によって実現する事になりました。Bakeryはこちらのガーデンレストランで販売中のお客様に大好評の天然酵母の国産小麦使用のパンを更に充実させたラインナップとなります。30種類以上の美味しいパンを御用意しております。パン工房を併設しておりますので、焼きたてのパンを堪能出来ます。

第3のコーヒー「フラットホワイト」を是非お試し下さい。このHPで御紹介してきましたが、このコーヒーの名前?日本ではあまり聞いた事がないと思われます。しかし、オセアニア(主にオーストラリア、ニュージーランド)では”超有名”な国民的コーヒー(ソウルコーヒー)として誰もが知り、そして愛してやまないコーヒーなのです。あのスターバックスでさえ、ニュージーランドで出店した時に元来メニューにないフラットホワイトを、この国限定でメニューに加えた程です。ニュージーランドの人にとって、「フラットホワイト」がない?店はカフェとして認められない!と言っても過言ではないでしょう。

それではどんなコーヒーなのか?「第3」と私は表現しますが、ラテとカプチーノの中間という表現が一番分かり易いでしょう。秘密は「フォームミルク」にあります。言葉では説明し切れませんので福島にお越しの際は是非一度お試し下さい。

私自身13年振りの日本での仕事です。すっかり定着したシアトル系カフェ文化に、新しい南からの風!「ニュージー系」のカフェを皆さんにお伝えしたい!という「熱い」想いを持って、今回開店プローデュースを行います。オープニングから店舗でチーフバリスタとしてコーヒーをお客様に入れ、もちろん日本のスタッフにも「第3のコーヒー」の作り方を伝授させる事が私の今回のミッション。いささか「興奮&緊張」気味です。もうすぐですから。

現在、グランドオープンが12月1日の予定です。毎日、NZから日本のパートナーと密に連絡を取り、オープンに向けて頑張っております。
皆さんに会える日が待ち遠しいです。

もう一つお知らせですが、このHPで紹介しているコーヒー豆の販売形態も変わります。12月から国内発送を開始します。より「お求め安く」なる事を私自身、大変楽しみにしております。引き続きFLAT WHITE JPをよろしくお願い致します。
(新会社 FLAT WHITE JP Co.LTD;日本法人への引継ぎを行います)

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タリーズコーヒー創業秘話 すべては一つの作り話から 6

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いよいよクライマックスです。

前回に引き続き、私"ミッキーについて"の内容ですが、
この部分は「共同経営の破綻」どころか”私への誹謗中傷の始まり”だったのです。そして、この本で完全に私は「闇に葬られた”変な”ビジネスパートナー」に成り下がってしまったのです。

オープンして2週間で「事件が起きた」とこの本に書かれています。
但しこれは私が辞める直前の出来事だったはずです。

アルバイトフェローのヒロミちゃんは私の右腕として、
ほぼ毎日一生懸命働いてくれていました。彼の本の内容では”ある日彼女が代表となり、アルバイト全員の私への不満を彼にぶつけてきた。それは「アルバイトを取るか、店長を取るか」という内容”とあります。???

アルバイトフェローは「経験者」と「大学生」に割れていたのは事実です。
私の誘いでスタバから来て貰っていた子達(2名)とヒロミちゃんが店の主力、残りは松田の妹さんのツテで大学生達。大学生は勿論「アルバイト」、スタバから来て貰ってた子達とヒロミちゃんはフリーター。経験の違いもありますが、やはり心掛けが違っていました。勿論、どこにでもあるようなスタッフの構成ですが、大学生達の私に対する文句や愚痴が、直接、彼らの取りまとめ役である妹さんを通じて松田に伝わり、私への「非難」に繋がったのが事件の裏側です。

この本の中で”自分が連れてきた子をひいき・・・”(?)

そんな低レベルな話ではありませんし、スタバに対抗するシアトル派のスペシャリティーコーヒーとして「クオリティ」をアピールしたかったのですし、一杯320円のコーヒーを昨日今日入った未経験者に作らせる程、私はコーヒーをナメていませんでした。フリーターである彼女ら経験者達は、どうしても雑用は減るし、シフトも増えますよね。コーヒーを作れる事はもとより、彼らは、”全て未成熟であるのに、一見、一流に見えるシアトルのコーヒーショップ”(実際はマニュアルは私が作ってましたし、アメリカサイドからの指導等は一度も無かった。)には、必要不可欠な人材でした。開店当時の我々の店では、余剰人員を雇う余裕などなかったですし。(私自身が無給でしたから。)その辺が大学生達には、”ひいき”に見えてしまったんでしょうかね。私も当時「未熟な経営者」だったと思いますから、勿論、不満を感じさせてしまった事はあったかもしれません。

でも「私達を取るか.....」と言われる程、酷い事をした覚えはありません。

そしてこの本に書かれている私の奇行(?)が登場してくるのです。

「休憩に行って、時には3時間.....」

休憩に3時間?酷い濡れ衣です。大体「河童橋」に買い物に行ったら、何分掛かりますか?それに第一、これは仕事です!!食事休憩と言ったって、大体は途中で立ち食いそばや牛丼屋による程度でした。「買い物」=「仕事」ですし、純粋な「休憩」など殆どありませんでしたから。”連絡の取れないパートナー”は、全く当てに出来ず、自分で買い物に行くしかありませんでしたから。”本当は居るはず”の事務所にも彼は居ませんでした。本当に一体、”毎日何をやっていたんでしょうかね!?”
全く情けなく、恥ずかしい話です。

「コーヒーの用意が出来ていない.....」

開店準備が遅れる事はあったかも知れません。
多分、1度位ですが。

「モカのオーダーにショートケーキのホイップを......」

どこからショートケーキが出てきたのでしょう!?
メニューにショートケーキなど存在しません!!
また、例えあったとしても絶対にそんなものは出しません!!!
完全な作り話で、本当に馬鹿げた捏造です。本を沢山売りたいのは分かりますが、もう”いい加減勘弁して欲しい”内容です。

まだまだ続きます。

「ゴミ出しをしていない」

タリーズのキッチンの左奥には外に出れる扉がありました。ある日
、すごく忙しかった日の営業中に、一杯になってしまったゴミ袋を取り換えて、それを店内に置いたまま営業を続ける事は出来ませんので、外に出しておきました。(銀座では当時、夜中に道路にゴミを出しておくと、翌朝までには片付いていました。)その日の営業後、通常のゴミを出し、その脇の扉に隠していたゴミを出し忘れた事があったのは覚えてはいます。確かに「あるまじき事」ではありますが、本に書くほどの内容なんでしょうか?

「アメリカーノに水道水を......」

実は、銀座一号店は今では想像もつかない程”素人の作ったお店”でした。先にも述べましたが、私も朝から晩まで働いても無給な位、全く資金にゆとりが無く、細部まで注意が行き届かないまま、半ば強引にオープンに踏み切りました。(既に銀座の一等地での家賃が発生していた為。)そこで、水道に浄水器は取り付けたのですが、見た目には判らなかった。確かに、オープン当初、水を入れて薄めるアメリカーノは、この水を直接、蛇口から入れていました。でも、これは当初の私と彼の苦肉の策だった筈ですし、その後、何日か営業を重ねて、”見栄えが良くないから、ピッチャーを買って、それに入れよう”という案が出てきたのです。
何故、私だけが悪者に?

極めつけはこの部分です。

「上が大変な事になっているのに、地下の事務所で優雅に.....」

私が地下でタバコをふかしていたのは、本来、彼が勤務すべき時間(私のその日の勤務は終わっているはずの時間。)でした。パートナーと度々、連絡が取れず、また、彼が何度も出勤予定をすっぽかして、更に、稀に出て来た日すら遅刻して来る。肉体的にも精神的にも彼への不満が限界でした。”同じ立場のはずの人間が、殆ど予定通りに来ないし、連絡すらもままならない”事への怒りと不信感”が頂点に達し、とても”優雅”という言葉とは懸け離れた「鬼の形相」だったはずです。

”上が大変?”

もし、それを素通りして、私を呼ぶ為にわざわざ下まで降りて来たあなたは真の経営者なんですか?(なぜ、自らエプロンを付け、すぐにサービスに入らないのですか?)

そして、この会話の部分で私の言い分は完全に消去されています。

逆切れではありません。
重要な資金繰り、及び会社の運営に関わる話だったのです。私は資金繰りに疑問を持っていましたので、その為に”彼を待っていた”のです。つまり遅れて出勤した挙句、私に責任を押し付け、自分の主張は正当化するも、肝心の内容ははぐらかす。先日、日本からわざわざ電話して来ましたが、その電話の内容もやっぱり一緒でした。彼はあの時と、少しも変わっていませんでした。
「自分がシフトに遅れる事は「正当化」し、それによってフェローにしわ寄せが来ても、全て「店長(本当は共同経営者)の勤務態度に問題がある!」という理論なのです。

これはどう考えてもおかしいと思いませんか?

「最後には私(ミッキー)が店を飛び出した!.......」

これにはまだ続きがあります。

最後に店で勤務した日に、私は店の売上金(一日分)を預かりました。確か10数万円のお金です。これは、”彼が資金繰りを隠蔽していた事”に対する強硬手段だったのです。
彼には電話で”その日の売り上げを持ち帰った事”と「次の日はお前が朝から店に出ろ!俺が入金に行くから通帳と印鑑を用意してくれ!」と伝えました。

何故、私が店の売上金を家に持ち帰ったのか?

ここが最重要ポイントなので、詳しく説明させて頂きます。

タリーズのオープン当時の売上げは、たかだか月350万円位でした。私も毎日、店で売上げ管理していますので、その位覚えています。前にも述べていますが、”資金繰りがすごくグレー”で、私に隠そうと(?)いや隠し続けていたのです。私は当然、共同経営者として「資金繰り」は心配です。何故なら、私の所持金は殆どゼロに近く、”会社が潰れては困る!”(担保も提供してますし)と毎日心配でした。何故なら彼は、私に”オープン前から会社の銀行通帳を見せてくれず”(しかも明らかに意図的に)、再三に渡って「通帳を見せてくれ!」と頼んでも、「今日は持ってない。」とか「忘れた。」なんて調子で、私の不信感はどんどん募りました。当時はインターネットバンキングも出始めだったので、銀行通帳による記帳が主流だった時代です。
本当に考えられない事でしたが、当時、輸入も始めたばかりで、
その辺の業務は彼がやっていましたので、銀行印は彼がいつも持ち歩いており、私はキャッシュカードすら持っていなかったのです。
この時点で完全に会社を「私物化」していたんですよね。自分(彼)は家族や親戚の出資を含めても、1000万足らずなのに、共同経営者の私を”店長扱い”して、会社の共同運営を無視して、私に責任を押し付けて、”店の運営までをも「私物化」”使用していたのです。

ロコトレーディング通帳

共同経営って”怖い”ですよね。
ほんの2ヶ月前迄は、お互いパートナーとして「疑う事を知らなかった筈」なのに、です・・・。

先の事務所の言い争いは「資金繰り」を公開しない、または隠し続けるビジネスパートナーに対する不満の爆発、そして私なりに考えた最後の手段だったのです。

”売上金を私が入金すれば良いのだ!”という、目からうろこの単純な作戦・・・。

売上金を入金しなければ、約定の決済とか支払い手続き等が滞る為
、「必然的に」通帳を持って来るだろうし、忘れないはずだ!<悲しい事に、私が銀行通帳(しかもコピーですよ!)を入手出来たのは私が取締役を退任し、タリーズを完全に抜ける書類の印鑑を押した日の事でした。>

期待を持っていた翌朝、”とんでもない事”が店では起きていました。

フェロー(スタバから私が頼んで働いてくれていた子)から電話を受け、私は”信じられない体験”をする事になりました。

早朝、「松田による大号令」があった、と・・・。

それは・・・

ミッキーが、
*売上金を盗んだ!
*店の周りをウロウロしているから気を付けろ!
*絶対に店に入れるな!
*火を付けるかもしれない!

という”酷過ぎる内容”が当時のフェロー全員に伝達されたのです。

「..........。」


共同経営者で、担保分も含めて総額4600万もの債権を保有している代表取締役が、”10数万円の売上金を一晩、家に持ち帰った
(共同経営の片割れ、松田の不審な行動による業務上の行為として
。)事”で「泥棒扱い」されたのです。

こんな屈辱を味わった事ありますか?
そしてこのパートナーとこれから上手くやっていけますか?

彼は完全にイカレてる。
私はそう悟りました。

この事件で”全て”が終わりました。

私が辞める前に、ヒロミちゃんからの電話でこの事件の裏側と「大号令」の内容、その前後の「作り話」の全てを知り、私の彼への「怒り」は頂点に達しました。「汚いヤツだ!」何も知らないアルバイトの大学生や中心スタッフまで巻き込んで。彼女は突如、よそよそしくなった私への態度や、言動の謝罪をして来て、その理由が「松田から言われた事を真に受けて、全て信じてしまった!」と涙ながらに語ってくれました。この告白の後、彼女もまた、タリーズを辞めました。(スタバの子達も事件後まもなく辞めました。)

これがヒロミちゃんを巻き込んだ大事件の全貌です。

私は辞める前に松田を問い詰めたのですが、「俺は誰がそんな事を言ったのか知らない、調べておく。」とはぐらかし、結局私は、この時「白黒つける事」よりも、「身を引く事」を選択してしまったのです。あの時、徹底的に追求しておけば良かった、と今更ながら後悔しています。でも、あの時タリーズを”ぐちゃぐちゃにしてしまう事”はリスキーに思えたんですよ。しかしそれは、自分の”甘さ”だったんですね。

何故なら私は、彼に”こんな本”(捏造と妄想)で更に追い討ちを掛けられているとは露知らず

私、及び私の家族は、そんな彼に対し
無事、全ての債権が完済されてから、ほんのつい最近まで(文春さんからの本の抜粋を読むまで。)「タリーズの成功」そして「担保を手放さなくて済んだ事」への、彼への”賞賛、
更に感謝”すら感じていたのです。

本の「価値」を本当に理解してこの本の「著者」は書いているのでしょうか?

真実を知る私には、”このような事”を書いて、10万部=10万の人を欺いている行為(そして印税という代価を受け取っている)は許しがたいです。

そして「本」は一生残ります。

私が気付いた(というより、週刊文春さんが教えてくれたのですが。)から良かった(それでももう、8年間も前から出版されています。)のですが、もし気付かなければ、私は一生「生き恥」をさらして生きていく事になりました。

しかも「松田公太」という、ビジネスでは成功を収めて、現在参議院議員として「国政」を司る”一人の人間の成功の裏側”で・・。

















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タリーズコーヒー創業秘話 すべては一つの作り話から 5

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いよいよ捏造と妄想の頂点とも言える部分に入ってきました。

ビジネスパートナー ミッキー

「ビジネスパートナー ミッキー」です。ミッキーとは私、中澤 美貴(よしたか)の事です。ニュージーランドという外国人社会の中、このニックネーム(タリーズでも外国人向けに使っていましたが。)を使い続けて今日に至っています。それは”タリーズを立ち上げた誇り”でもあり、郷に入れば郷に従え!の精神の一つでもあります。

さてこの章は、最初から最後まで私を「変人」扱いしています。しかも、一部の人達には一目瞭然の”ミッキー”という呼び名を無断で使用しており、これは名誉毀損であり、言論及び報道・出版の自由を逆手に取った「おぞましい行為」として出版停止と回収を、前回の松田からの電話の中で「要請」しました。

私がここで綴ってきた内容以外にも”疑わしき点”は沢山ある事でしょう。
勿論、私が知る由もない事が書かれていますので、それについては触れる事は出来ませんが、少なくともこの本の3分の1(33%)は「捏造」である事を、私はこのブログで訴えています。

それでは本題に戻ります。

まず「オレの事はミッキーと呼んでくれ!」???

私は自分から進んで「呼んでくれ!」なんて頼んではいませんし、フェローも誰一人そう呼んでいませんでした。松田ただ一人がそう呼んでいただけした。

彼とは三和銀行の同期で、研修で知り合い、なんかお互い気があって良く会うようになり、いつしか「親友」とお互いを感じるようになっていました。一緒にサーフィンやダイビング、嫁さんを連れて映画見に行ったり.....
どこにでもあるような光景です。彼のバックボーンがアメリカでしたので、彼の青春時代の話はすごく興味深い物でした。今思えば”疑わしい”ですけどね。そして彼はこう言った。「俺はアメリカで”こうたは呼び辛い”との事で、KOOTS(クーツ)と呼ばれていた。中澤、お前は何が良い?」、当時は若く、彼と一緒に遊んでいたのでノリで、「俺は昔から”(美貴)みき”と呼ばれてからかわれてきた。でも”みき”は英語風にいえばMICKEY(ミッキー)だから、ミッキーってのはどう?」、そして彼は「そうだな!ミッキー、良いじゃない。今度からミッキーでいこう!」なんて軽い話が今の私のニックネームの始まり。私個人的には外国人にすぐ覚えられる名前なので気に入って使ってますけど。やはり「外国」で名前を覚えられる事は、自分の存在を”認知”してもらえる意味で大きいと思います。NZの語学学校でも先生達にすぐ覚えられるし、Cafeで働いていても「英語のままならない私」をスタッフ達がすぐ覚え、気さくに話しかけてくれたのも、このMICKEY(ミッキー)という名前のお陰だったのでしょう。

「アメ車以外は車じゃねえ!」???

私は彼のように、嘘は言いませんし書きません。アメ車は好きでしたし、シボレーのカマロという車に3年くらい乗っていました。とかくアメ車のイメージは悪く思われがちなのですが、これは趣味の世界でもあるし、銀行の同期の中にはフェラーリに乗ってる人もいましたからね。彼はテラノの新車を乗ってましたよ。たぶん値段的にはあまり変わらないし、単なるイメージの問題で、この本にも「悪く書く」には持って来いの素材だったんでしょうね。アメ車に乗ったのは後にも先にもその3年間だけです。アメ車独特のあのトルク感は他の車では体験出来ないでしょうね。良い思い出です。

そして、「ブルース・スプリングスティーン?」

これもすごい脚色ですね。アメリカ=Born In The USAなんでしょうね、彼の頭の中は。
私はTUBEとか、当時で言えばT-BOLAN(懐かしいですけどね)が好きで、主にアメ車でそんな曲をかけていました。

「ロンドンブーツが10足以上家に飾ってあった」???

完全に彼の妄想は頂点に来ていますね。ロンドンブーツは”ロンドン”じゃないんですか?話はアメリカ続きで来ているのに。
大体ロンドンブーツって、どんなファッションで履けば良いのか見当も付かないし、もちろん買った事も履いた事もありません。

「サーフィン」???

私は25歳で始め、下手なままでした。ただ、私のサーフィンの楽しみは、当時、千葉に住んでいたので千葉の海をこよなく愛し、片貝海岸をベースにサーフィンに月に何度か通っていました。決まって行くのは「海の家:なんぶ」。そこの「りんさん」という初老の女性が気さくなとても良い人で、必ず「なんぶ」でシャワーを借り、ご飯を食べて、雑談(ひどい時は一度も海に入らず、おばちゃんと話をして楽しい時を過ごしていました)。すごく懐かしいです。

彼も私も、決して「波にのまれる事」はあっても、上手に乗れることはありませんでした。これは事実です。

「Lトレーディングに合流してきた」???

私が彼の誘いでロコ・トレーディングの親会社のK社長と会ったのは、確か1996年の9月頃。K社長は東京の練馬で熱帯魚の卸売りで「成功」を収めていた人でした。その輸入関係をこなしていたのがロコ・トレーディングでした。
この会社を使って「新規事業を起こす」のが目的で、松田は確か6月頃に銀行を辞め、そこで働き始めていました。そしてその時来た話が「エビの養殖をマレーシアで行い、日本に仕入れて売る!」という話。「日本人とエビ」という本が出ている位なので、日本人のエビの消費量は、確か世界2、3位。莫大な市場でした。その話を聞いて私はもちろん興味を持ち、その後「ロコ・トレーディングで一緒に頑張ろう!」という彼の誘いで12月銀行を辞め、1997年1月からロコ・トレーディングの新規事業を、松田と共に任される事になりました。それから約8ヶ月の歳月「紆余曲折」しましたが、K氏との関係も崩れ、”我々2人で独立した事業を自分達の資金でやっていこう!”と決めて始めたのがタリーズだったのです。K氏からの援助は、たった4ヶ月で終了。この頃には、松田とK氏の間で対立が起きていて、K氏の会社の一室を借りてやっている我々の肩身はすごく狭かったです。それでもK氏は我々に「出て行け!」とも言わず、影ながら支えてくれていたような思い出があります。

銀行という大組織を飛び出して、「大丈夫、大丈夫!」なんて能天気に振舞えるほど私は大物ではありません。ですから、”コオロギチョコ”や”電磁波防止品”を事業のメインにしていた松田が、最後に「アイスクリームで勝負をしよう!」と言ったところを、”コーヒー事業”に転換させた、私の必至の方向転換(スタバやホブソンズで働き詰めて)でお分かり頂けるでしょう。

””しかし何故ここまで私をこき落としているのか?””

私は、1998年からニュージーランドに渡り、一度はアメリカを目指しますが、「オークランド(NZ)のCafe文化の素晴らしさ」を知り、”アメリカ行きは辞めて、ここに残ろう”と決めました。そして、タリーズが危機に陥った時に、その時働いていた(最終的にはマネージャーとして働いていました)SIERRA;シエラというCafeチェーンを日本の銀座に持っていこうと画策していました。1999年にワーホリを終え、永住権取得の為に日本に一時帰国した折、松田に会いました。(たかだか10分程度でしたが、この時の再会の事も何故か、「会っていない。」と嘘が書かれていますが。)そして「これからNZの永住権を取るんだ!」という話をしたので、もう私が日本には帰って来ない!「”真実”を知るものはいない!俺は成功した!」とでも思い、この本を出版したのではないかと思われます。

そして、当時の銀行の同僚やフェロー達、ひいては、私の友人や知人達もこの本を読んだり、彼がテレビ、雑誌等で「一人で立ち上げてきた成功話」をする度に、記憶に蘇る私、”ミッキー”を闇に葬りたかったんでしょうね。

先日の電話で”実感”しました。普通、こんな事を書いておいて「まだ本読んでなかったの?」「俺はいつかこうして、もう一度話がしてみたかった!」なんてシラジラしい電話の声は、明らかに私が「この本を読んでしまった事」そして、「私の口が開く事」を
恐れている感じに受け取れました。
SIERRA MT EDEN RD


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タリーズコーヒー創業秘話 すべては一つの作り話から 4

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どうやって開業資金を工面したか?

この章を今年の7月の終わりに週刊文春さんから教えて頂き、
「ちょっと待て!」と私は怒りを感じるしかありませんでした。

どうやって開業資金を調達したか?

7千万円!という「重み」がどんな物だったのか?
この本には「私が」と松田がすべての資金を調達したかのように書かれています。

大嘘です!

正直、私も手元にあった資金は300万程度、彼は200万程。とてつもない数字の開きがありましたが、将来への可能性に掛ける想いは想像を絶していました。彼も親戚中を回り、彼の嫁さんの親戚をも当たりましたが、集まったのは5百万、そして知り合いの方だったと思いますが残りを借りてトータルで1千万程。
私も同様家族からの資金援助を依頼して1千万程しか集まりませんでした。確か機材をリース契約したり、デザイン会社経由で資金調達したり、初期投資を極力減らし、最後の最後には10万単位で人に借りたりして、何とか自分達で集めようとしました。しかし、まだまだ足りない。松田は「もうダメだ!」とうなだれて諦めかけていました。
私は最後の切り札である母名義の土地を「担保」に出してもらえないかと両親に頼み込みました。私には兄がいます。もちろん将来的には「相続」という事を考えれば「兄」の承諾も必要です。その頃、かねてからの糖尿病と痴呆症を煩っていた祖母の看病に両親も疲れきっており、とてもそんな事を頼める状況ではなかったのですが、「夢」に突き進む”若い魂”!「俺の人生に賭けてくれ!」という勢いで頼み込み、家族の大切な資産を担保に「資金調達」を実現させる事が出来たのです。
彼は一度もお願いにも来ていませんし、お礼にも来た事はありません。

但しこの「担保」「連帯保証人」という重責を、私がタリーズを離れても3年間”背負って”生きてきた家族がいたのです。

それが「私の家族」なのです。

何故?私はタリーズを離れたか?

2つの大きな理由があります。

?母の「アルツハイマー」(若年性痴呆症)

?さらに大きな理由として「共同経営」の破綻

この事業は2人の分業体制で成り立ってきました。彼は英語力を駆使してタリーズ本社とのコミュニケーション、輸入業務等。私は前述したようにカフェでの勤務の経験を生かし店舗の設計とコーヒーの技術、店舗サービス等店舗運営中心に分業体制でオープンまで突き進んできました。

本当に寝れない日々が続き(ほとんど一日中仕事でしたから)気力も体力も限界、でももうすぐ「夢」が実現する!という気持ちで一杯でした。プレ・オープン前夜のエピソードなのですが、確か夜中の1時頃ようやくすべての店舗の設備や清掃が整い、「ふー」と寛いでいた時の事です。
私が何気なく地下の客席に下りていくと、「嘘だろう!」って光景が目に飛び込んできました。なんと地下の客席の壁に何と何百という「ショウジョウバエ」がびっちりくっ付いているではないですか。新品のソファーや塗り立ての壁に。そして恐る恐るトイレ(実際お客様の使うトイレです)の電気を付けると何千ものハエが便器の隙間から湧き出してきていたのです。
疲れているなんて言ってられません!業者も含め、皆で手分けして夜中の銀座周辺のコンビニをあさり、何とかバルサンを10個ほど(それしか手に入らなかった)散布し、その後また清掃を行い、確か終わったのは朝の4時を過ぎていたでしょう。それから数時間後にタリーズは「産声」を上げました。

さて話は戻りますが、オープンして週休7日。休みなし。
「フェロー」には私がスターバックス時代に一緒に働いていた人に頼み込んで兼業、またはこちらで専業になってもらったり、松田の妹さん(当時青山学院の学生)とそのお友達、そして一般からも募集して「第一次フェロー」が誕生しました。スタバの子達やヒロミちゃん無くしてこの店は回らなかったです。
朝は6時にお店に着き、マシーンの立ち上げから当時デリバリーしてもらっていた銀座の「木村屋」のパンを並べ、狭い店なので下の客席からコーヒー豆や備品を取り出し開店準備。そして7時オープン。それから夜10時まで(週末は12時まで)営業し、掃除をして、ストック管理して・・・みたいな毎日。当初私が週4日、彼が3日と決めて始めましたが、彼は一日すらまともに来ませんでした。いつも遅れて、ひどい時には来ないし、電話をしても出ない、言い訳は全て「タリーズといろいろ交渉があるから」!?日本とアメリカは時差があり、朝から昼間は向こうはもちろん「夜」。つまりこちらの夜に向こうはやっと動き出すのに「一体何をやってるんだ?!」といつも私は彼に問いかけていました。残念な事も聞かされました。最悪なのは、彼が当時親しくしていた女性の事。(私が辞めた後タリーズでバリスタをさせ、後に役員にも・・・。)
人生を掛けた一号店のオープン直後、神経を逆なでするような”プライベート”を平気で私に「相談」したりしていました。こっちは寝てないし、疲れきって、お腹へって....ボロボロの状態だったのにですよ。「あいつは本当に何やってるんだ!!」彼に対する”不信感”が、私の中でどんどん大きくなっていきました。私は朝から夜まで働きっぱなしで、もちろん店に泊まる事も多かったのです。何とか家に帰っても、熟睡しないよう、ソファーで1時間足らず仮眠してまた出勤。(これも大きな原因の一つで離婚も経験しました。)

共同経営の破綻として決定的な出来事は、彼の不可解な行動です。何故か私にオープン以来「銀行通帳」を隠し続けたのです。彼が店に来ると、必ず「売上金」を回収していくのです。もちろん私が店を離れる時は、河童橋に備品を買いに行く時や両替に行く時くらいでしたから。給料を一切取らなかった為、食事といえば朝から陳列していた「木村屋」の売れ残りの”カピカピ”のパンを一日一食取り、夜、店を閉めてからコンビニのカップめんを食べたり、家に帰れた時は用意していてくれた食事を真夜中に取るくらいでしたので。(2ヶ月で15Kg痩せました。)
冒頭に述べたように、資金的な負担は私の方が担保も含めて多かったのです。でもそんな私は会社の会計状況を知るすべもなく、日々店舗経営に追われ、「共同経営者」という立場を全く無視されてきていました。

”何故、隠していたのか?”今でもまともな答えは貰えていません。(”忘れた”か、”忙しかった”の他は、のらりくらり。他の話題にすり替えたり。)但し、この事業から私が手を引くという手続きを終えた時、初めてコピーを渡されました。


もう一つエピソードがあります。
それはプレ・オープンの日(あのスタバの幹部達に睨まれる前日)プレスの方々や招待客、そしてお互いの両親等を招いてセレモニーを行いました。
その日、彼は社長気取りで立ち振る舞い、私は2ヶ月ぶりにあった母に異変を感じてはいましたが(すこしボケている感じだったので。)その時、私がメインバリスタだったし、注文のドリンクをさばいたり、とにかく”忙しく”すぐそこにいる両親へ感謝の言葉すら掛けられない状況でした。そしてあの社長気取りの男は、”一言”挨拶をした程度で、後は自分の家族と一緒に下の客席でコーヒー飲みながら話していたりして、「担保」提供者の母の事は”何とも思っていない”様子だった事が今でも悔しいです。
それから2ヶ月、私は彼に良いように”利用”された書類上だけの「共同経営者」、そう「雇われ店長;但し無給」だったのです。

そしてもっとひどい事に、彼はアルバイトの子達に「私」に対する誹謗、中傷をし始めたのです。私の彼に対する不信、不満は増幅し続けていきましたが、彼の妹も働いているし、その友達、ましてや”開店したばかりでトップ2人がお互いを中傷しているような事はあってはならない”と全てを心にしまい込んでいました。後に、この本に出てくる「ミッキーの勤務態度」で彼が語っていく事件に繋がっていきますが、これについては次に綴ります。
何度も言いますが、出資比率で考えれば「私」が代表者でもおかしくない状況だったのですが。”例の事件”が起き、私は店をも離れる事を決めました。

私は店を離れ、フランチャイズの動きを始めました。銀行員時代のお客さんに話を持ちかけ、何とか(自分だけの新しい事業を展開して行こう!)と。タリーズを、松田が銀座店、私はFCとお互い分かれて行く道が最後の選択肢だったのです。しかし彼は当時、猛烈に反対し、そして「もう、あいつとはやっていけない」と決別を決めました。

但し、そんなに簡単に「決別」出来る話ではありません。
担保と保証人。本来なら私がタリーズを離れる時に清算するべくものなのですが、もしそうするならば、タリーズを「潰す」しかありませんでした。何故なら彼には資産はありませんでしたし、担保に代わるものがなければ、「返済」を求められるし、仮に「潰れたら」お互いというよりも私の家族が大損!全て取り上げられてしまう訳ですから。

これは苦渋の選択でした。

残念ながら私は当時、タリーズ本社とコミュニケート出来るだけの英語力を持ちえていませんでしたし、通訳を雇うお金もないし、八方塞でした。自分のふがいなさを「呪い」ました。
もう一つの道しか残っていませんでした。

つまり「生かす」道です。債権者である私の家族を説得して、彼と契約書を結びました。

「紳士的」「常識的」な資金返済契約でしたが、口頭で「遅延は認めない」と念を押して置きました。でも実際2,3度遅延する事もありましたが、こちらからとやかく言った事はありません。本当に良い債権者だったと自分でも思います。

私はタリーズを離れ、両親の住む山梨に行き、暫くは母の病状を抑えるべく「穏やか」に暮らしていました。地元の「ドトール」コーヒーで店長として働き、私の夢の炎を静かに灯していました。母の状況は「回復」して来たように思えました。今思えば、30前後の一度「勝負を仕掛けた」男がこのままで良いのか?という気持ちで「良くなってきたように」思いたかったのかも知れません。
そしてタリーズの状況を毎月通知する”約束”でしたが、実際3ヶ月に一回来れば良いほうでした。数字は決して良いとは言えませんでした。

「このままでは、やばい!」

そう思って、単身ニュージーランドのオークランドへ「語学習得」(30歳を超えた私にワ−キングホリデイでいける国はそこだけ)とタリーズに代わる新たな商売を探す為旅立ちました。もちろん最終目標はシアトルでした。
ミルフォードビーチ



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RobertHarris(ロバート・ハリス)コーヒー

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NZの13年前といえば........
それはそれはCafe産業の発展途上段階で、初めてスターバックスがパーネルに出来て「アイスラテ」やら「フラペチーノ」がKIWI達を驚かせていた時代。
そしてNZブランドといえば、ATOMIC SIERRA COLUMBUS BB'S(AUS)等のチェーン店、でもそれよりもっと前からスーパーマーケットの棚を占領していたNZのコーヒーのパイオニア:そうです!RobertHarrisなのです。

ロバートハリス1

2000年に入り、Cafeブームに乗り遅れはしたものの、KIWIのSoulコーヒー的存在力でCafeも積極的に出店しており、スーパーの棚占有率依然60%を誇る老舗。

私の好みではないので今まであまり紹介する機会がなかったのですが、沢山のフレーバーコーヒーも手掛け、全部で15種類くらいのバリエーション(しかもスーパーで他のブランドと比較すれば一目瞭然、低価格!なのです)を持つ、NZで知名度No.1コーヒー会社です。

今回は私の本業の一部”飲食店開業コンサルタント”を行っているお店の前に「カッコいい!」お店を見つけてこの記事を書いてます。
NZの会社は「黒」(オールブラックス;ラグビーが有名ですからね)を好みます。さすがNZの老舗!こちらのお店も「黒」を基調に店舗展開しています。
但し最近出て来たTHE COFFEE CLUB(AUS)とかぶってしまっている。

ロバート

日本にはなかなかない「黒」いコーヒーチェーン店。しいて言えばドトールですが、「黄色」が目立つ為、「黒」いイメージはあまりないのでは。

是非、KIWIのSOULコーヒー;ロバートハリスをNZ滞在中に味わってみては?
*尚、類似品(名?)のRobertTimmis(ロバート・ティミス)とBurton Harris(バートン・ハリス)とお間違えのないように。

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タリーズコーヒー創業秘話 すべては一つの作り話から 3

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この本の第1章は、素晴らしく「創りあげられた物語」で完結しているのですが、また第4章から再開して来ます。第3章には銀行員時代の事が書かれていますが、御存知の様に、私も彼と同じ三和銀行(現在の東京三菱UFJ銀行)で同期として過ごしてきました。もちろん支店や周りの環境は個人差がありますが、私は彼のような経験、特に同じ外交(営業マン)として、自分の数字をごまかされたり、冷遇された事もありませんでしたので、この事を否定も肯定も出来ません。ただ私は日本で生まれ育ち、感覚的に社会のルールや文化を肌で感じてきましたので、上司との付き合いの中で彼ほどの”屈辱”(?)を受けた事はありませんでした。

幻の広尾一号店

第4章では店舗について書かれています。幻の一号店?「広尾」。但しこれはダンケンズとしての店舗予定地でした。アメリカのアイスクリーム=外人=広尾?という発想(もちろん聖心女子大もありますし。)で、とても25歳以上の男性女性をターゲットにした店作りとはかけ離れてますよね。ですからこの店舗はアイスクリーム構想の第一号店だったのです。

では何故?コーヒー路線に変更したか??

実は私は、彼の進めていたアイスクリーム展開に疑問を持ち(季節産業)、ロコトレーディングで昼間、電磁波防止商品やコーロギ入りチョコレートを販売(両方とも渋谷の東急ハンズで販売してもらえました。売上げは??でしたけど。でも電磁波の素材に関しては、私自身東京大学の理工学部の助教授から問い合わせを受けて、営業に行った事もありました。)をしつつ、”これでは駄目だ!そして、この先はアイスクリーム???”
という疑問を抱き、実際に”業界の中身を探ってみよう!”と決心し、アルバイトとして赤坂のスターバックスと西麻布のホブソンズでお世話になりました。実際、その3ヶ月位は、昼はロコトレーディングの本業。午後からはアルバイトと身を粉にして働きました。
勿論、後に”コーヒービジネスをやるんです!”という事は内緒でいた。
スターバックスコーヒーでは、店長をはじめスタッフの皆さんには大変お世話になりました。外から見ていたスターバックスと、中から見るのでは「大違い」でしたから。(良い意味で。)そこで研修を受けて、実際、店舗で3ヶ月ほど確か週4日くらい働かせてもらい、とにかくコーヒービジネスの将来像を掴み、同時にタリーズ、または他のコーヒービジネスへの野望を膨らませていったのです。ですから、英語の堪能な松田は「タリーズ担当」(主に輸入取引手続きと仕入れ等)、そして私は彼の言う「店長」(?)というか「店舗運営」にその経験を生かして着々と(無茶苦茶な話ですが、実際は3ヶ月くらいでオープンまでにこぎつけました)実行していったのです。元来タリーズはスターバックスのコピーでしたから(アメリカ本社自体)それを日本でも実行しただけなのです。

私が聞いた話はこういう事です。ある日、不動産を保有していたタリーズ社長トムのところに、スターバックスから事務所を貸して欲しいという話があり、トムはそれまで全く興味を示していなかったコーヒービジネスを調べてみた。すると、飛躍的に伸びるスターバックスの成長をみて、「よし!俺もこれやってみるか!」と思い付き、タリーズコーヒーを立ち上げた、という事です。非常に真実味のある話です。そんなタリーズですので、前回も書いたように「独占販売契約」という形で、日本の1号店を開く際に「マニュアル」はほぼ存在していなかったのです。後に、アールジェイ(副社長)から渡されたアメリカ版タリーズマニュアルと、スターバックスの日本のマニュアルを比較してみましたが、殆ど同じだった気がします。ただ違うのは「フェロー」と「スワークル」位だった様な気がします。

そして私が恐怖に慄いたのは、タリーズオープンの日。スターバックスの管理部門の方(全店長達とマネージャークラス8名程)が私の前に現れ、タリーズの全商品を一個ずつ注文して、すべて味、作り方等を何も言わずにジィーっと見て、味見をして(確か少し味についての厳しいコメントをして)帰っていったのです。あれは本当に「冷や汗」では済まなかったですね。

{それではアイスクリームは?}
コーヒー業界に賭ける私には、スターバックスがメインでした。
それでもホブソンズは、週末の夜の時間帯を選んで働いてみました。当時は千葉に住んでいましたので、終電には乗れず、いつもお店で店長と仮眠を取って、自宅へは翌朝帰っていました。週末でしたが、時期は4月から6月。六本木で週末を遊んだ人達が確かに来てはいましたが、コーヒー程の爆発的な、しかも長時間営業は正直、成り立ってはいませんでした。

「やっぱり!コーヒーしかない!!」

この経験を元に松田と話し合い、5月のシアトル行きは完全に「コーヒー」狙いの旅になったのです。

余談ですが、タリーズは当初から「喫煙OK」をスターバックスとの差別化とし、価格もTallサイズを少し安くして、日本人の「真ん中思考」(つまり3種類あったら真ん中、つまりTallサイズを選ぶ傾向がある。これが他社より安かったら....)を狙っていったのです。喫煙席の発想は、スターバックスでアルバイトをしていて、お客様が「コーヒー飲むとタバコが吸いたい!!」という声を聞いていましたので、タリーズはこの顧客層を取り込もう!(私自身愛煙家)と思い付いたので、店のコンセプトに加えました。

脱線していってますが、店舗の話に戻ると
「どうやって銀座に物件を確保できたか?」
ですが、答えは簡単です。
私は前述したように三和銀行の銀座支店に96年12月前在籍しており、田崎さん(ビルのオーナー)は銀座支店のお客様だったのです。そして、三和銀行の関連会社の方も、私が行員時代に色々とお世話になった方で、この話を持ってきて頂いたのです。問題は、ただ単に「金額」でした。
この本に書いてあるようなドラマチックな「直談判」などは無く(前述した帝国ホテルでのトムへの直談判程の妄想ではないのですが)単に我々が”保証金3500万ほどを払えて、毎月150万近くのレントを払っていけるのか?”それが「大問題」でした。

そしてこの話は次に綴る「どうやって開業資金を工面したのか?」に続いていきます。

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松田参議院議員からの電話 9月28日2010年 

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私は本業の不動産業で、日々、忙しい暮らしを送っていますので、なかなか連載出来ないのが現状です。それでもこのブログを御覧になっている多くの方々から「本との具体的な相違=捏造部分を教えて!」とか、「もっと早く知りたい!」という様々な要望、応援のメールを頂いたりしていますので、今後なるべく詳しく書いていきたいと思っています。そしてUpDateも頑張ります。
この本を買ってもらっては困るんです。私はこの捏造本の「撲滅」「廃盤」を求めていますから・・・。これからも尚、本の著者、政治家としての「責任」を追求していきます。

実は、9月28日火曜日のNZ時間9時頃、松田公太本人からNZの自宅に電話がありました。内容は、簡単に言えば「日本に来た時は飯でも食って話をしよう。」と。「”事実の告発”に関して、会って話がしたい。」との打診が本題でした。遠まわしの「火消し作戦」です。勿論、「話をするのは”まずこの本をどうにかしてから!”この本が解決すれば、会う事はそれから考える!」と突っぱねました。

当たり前です!
会う訳ないでしょう。”こんな本書いてて、どの口がそう言える?”正直見て見たかったですけどね、顔を。

最後に、「携帯電話の番号を受け取って貰えないか?」言ってきましたが、「いらない!日本での面会も本の存在がある以上は無理。」と拒否すると残念そうでした。彼はしきりに「俺の本はたかだか10万部、ミッキーの週刊文春(私はあくまでも取材に答えただけですが。)は60万部以上!だからこの本の影響は少ない!なんて無茶苦茶な事を言っていました。
そしておまけに、「えっ!?読んでなかったの!!!?」”お前何様だ!”って言うのが私の本音です。こんな事を書いておいて、「何で読んでないの?」と言わんばかりの図々しい態度には驚きました。うちの母親名義の土地を担保に入れて、借り入れを起こし、私が抜けた後も担保はその後3年間継続して担保として提供し、私自身も連帯保証人として、いつ来るかもしれない「倒産」の2文字に怯えながら、度重なる返済遅延(私たち家族への個人借り入れ返済)に文句も言わない我々を良いことに、私の事を「あんなにもコケ落とし」(あの本のミッキーは、単なるお気楽、能天気な変人キャラクター)、私の家族へのリスペクトを完全に無視した「すべては一杯のコーヒーから」という”妄想、捏造本”を書いている政治家が最後に言った言葉に私はキレました。

「返済が終わったので、お前の実家の住所とかすべて消去した!」

私は本当にこの新人政治家(タリーズ創業者)には呆れました。私の母はタリーズオープンの97年の9月にアルツハイマー(当時57歳)と診断され、それがタリーズを去った大きな要因だったのです。どうやって開業資金が集められたかを開業資金についての章でまた詳しく綴っていきますので、それを読んで頂ければ私の気持ちが分かってもらえることでしょう。

正直、今回の電話での私の反応に、本人はバツが悪そうでした。そして私も追い討ちを掛けるようにある出来事(本には私がNZに行った後、タリーズ本社に現れて、彼は外出していて”直接会っていない”...)について聞いてみた。私はNZの永住権の申請に必要な「勤務証明書」(ロコトレーディングの代表取締役として働いていた証明書をNZの移民局に出す書類)のためアポを取り、確か笹塚辺りのタリーズ本社に松田本人のサインをもらいに行って、”10分くらい世間話をして、本当は会っていた事”を問い詰めた。彼は勿論口ごもり、何も言えなくなってしまい、話を変えてきました。(この時のやり取りで、一気に色々と思い出しました。昔もよくこうやって、はぐらかされたり、ごまかされたりした事を・・・。)

この電話は25分くらい続きました。最初に受話器を取ったらハウリングして、もう一度掛け直してきました。、政治家ですから”録音”でもしていたんじゃないでしょうかね?会話を。内容についてはまた記事と照らし合せて綴っていきます。


前置きが長くなりましたが、捏造はまだまだ続きます。

日本における利権獲得

帝国ホテル?でトムに会った話(1996年と書いてありますが....まだ彼は銀行に居たはず。)そして、行ってもいない妄想の3回目のシアトルの話.....
その3回目のシアトル訪問(真実は2回目の。前回の話で書いた話です)で、
シアトルで有名なシーフードレストランでの契約交渉!?これは本当はダンケンズのダンが自前のクルーザーでシアトルの水上クルーズしてくれて、所謂「アメリカンドリーム」的なビジネスミーティングに招待してくれました。実際ボート音もうるさいし、英語は聞き取れないし、ほとんどアクティビティーそのものでしたが、あれにはシビレました。これぞ!アメリカ!!みたいなダンのもてなしに我々も有頂天。その後、シーフードレストランで飛び切り美味しい(でも覚えてないんですよね、何を食べたのか)を済ませ、最後はダンの自宅に御招待を受け、彼の奥さん(確か元ミスバンクーバー)ともお会いして、素敵なシアトルの夜を過ごす事ができました。確か「万年筆」はダンからの物だったと思います。僕は貰えませんでしたから。あの時、たぶん英語の不十分な私を「共同経営者」と紹介する事無く、ただの「店長」くらいの扱いだったんでしょうね。今思い返せば。

ですからこの本に書かれているような「タリーズとの契約」はシーフードレストランでは在り得ませんでした。契約は事務所で淡々と行われ、たぶんトム自体余り期待してなかったと思います。たぶん日本から来た豆を買ってくれる、良いお客さん!程度だったかもしれません。
この本の全ては「ダンケンズとロコトレーディングの劇的な契約物語」がタリーズに置き換わっています。そうなんです。シーフードレストランは「ダンケンズ」との契約だったはずです。本当にダンが可哀想です。

さてタリーズの契約内容は?
タリーズとは一年契約で確か200万円の契約金でした。内容については日本での独占販売契約というザックリした物でした。後のこの契約書が「タリーズの大問題」に発展するとは夢にも思いませんでした。(私はその時は外部の人間で、この本を読むまで知りませんでしたけど)
契約金が「ゼロ」?とこの本には書いてありますが。もし本当なら彼から私は騙し取られた事になりますね、この200万円を。








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