タリーズコーヒー創業秘話 すべては一つの作り話から 5

いよいよ捏造と妄想の頂点とも言える部分に入ってきました。

ビジネスパートナー ミッキー

「ビジネスパートナー ミッキー」です。ミッキーとは私、中澤 美貴(よしたか)の事です。ニュージーランドという外国人社会の中、このニックネーム(タリーズでも外国人向けに使っていましたが。)を使い続けて今日に至っています。それは”タリーズを立ち上げた誇り”でもあり、郷に入れば郷に従え!の精神の一つでもあります。

さてこの章は、最初から最後まで私を「変人」扱いしています。しかも、一部の人達には一目瞭然の”ミッキー”という呼び名を無断で使用しており、これは名誉毀損であり、言論及び報道・出版の自由を逆手に取った「おぞましい行為」として出版停止と回収を、前回の松田からの電話の中で「要請」しました。

私がここで綴ってきた内容以外にも”疑わしき点”は沢山ある事でしょう。
勿論、私が知る由もない事が書かれていますので、それについては触れる事は出来ませんが、少なくともこの本の3分の1(33%)は「捏造」である事を、私はこのブログで訴えています。

それでは本題に戻ります。

まず「オレの事はミッキーと呼んでくれ!」???

私は自分から進んで「呼んでくれ!」なんて頼んではいませんし、フェローも誰一人そう呼んでいませんでした。松田ただ一人がそう呼んでいただけした。

彼とは三和銀行の同期で、研修で知り合い、なんかお互い気があって良く会うようになり、いつしか「親友」とお互いを感じるようになっていました。一緒にサーフィンやダイビング、嫁さんを連れて映画見に行ったり.....
どこにでもあるような光景です。彼のバックボーンがアメリカでしたので、彼の青春時代の話はすごく興味深い物でした。今思えば”疑わしい”ですけどね。そして彼はこう言った。「俺はアメリカで”こうたは呼び辛い”との事で、KOOTS(クーツ)と呼ばれていた。中澤、お前は何が良い?」、当時は若く、彼と一緒に遊んでいたのでノリで、「俺は昔から”(美貴)みき”と呼ばれてからかわれてきた。でも”みき”は英語風にいえばMICKEY(ミッキー)だから、ミッキーってのはどう?」、そして彼は「そうだな!ミッキー、良いじゃない。今度からミッキーでいこう!」なんて軽い話が今の私のニックネームの始まり。私個人的には外国人にすぐ覚えられる名前なので気に入って使ってますけど。やはり「外国」で名前を覚えられる事は、自分の存在を”認知”してもらえる意味で大きいと思います。NZの語学学校でも先生達にすぐ覚えられるし、Cafeで働いていても「英語のままならない私」をスタッフ達がすぐ覚え、気さくに話しかけてくれたのも、このMICKEY(ミッキー)という名前のお陰だったのでしょう。

「アメ車以外は車じゃねえ!」???

私は彼のように、嘘は言いませんし書きません。アメ車は好きでしたし、シボレーのカマロという車に3年くらい乗っていました。とかくアメ車のイメージは悪く思われがちなのですが、これは趣味の世界でもあるし、銀行の同期の中にはフェラーリに乗ってる人もいましたからね。彼はテラノの新車を乗ってましたよ。たぶん値段的にはあまり変わらないし、単なるイメージの問題で、この本にも「悪く書く」には持って来いの素材だったんでしょうね。アメ車に乗ったのは後にも先にもその3年間だけです。アメ車独特のあのトルク感は他の車では体験出来ないでしょうね。良い思い出です。

そして、「ブルース・スプリングスティーン?」

これもすごい脚色ですね。アメリカ=Born In The USAなんでしょうね、彼の頭の中は。
私はTUBEとか、当時で言えばT-BOLAN(懐かしいですけどね)が好きで、主にアメ車でそんな曲をかけていました。

「ロンドンブーツが10足以上家に飾ってあった」???

完全に彼の妄想は頂点に来ていますね。ロンドンブーツは”ロンドン”じゃないんですか?話はアメリカ続きで来ているのに。
大体ロンドンブーツって、どんなファッションで履けば良いのか見当も付かないし、もちろん買った事も履いた事もありません。

「サーフィン」???

私は25歳で始め、下手なままでした。ただ、私のサーフィンの楽しみは、当時、千葉に住んでいたので千葉の海をこよなく愛し、片貝海岸をベースにサーフィンに月に何度か通っていました。決まって行くのは「海の家:なんぶ」。そこの「りんさん」という初老の女性が気さくなとても良い人で、必ず「なんぶ」でシャワーを借り、ご飯を食べて、雑談(ひどい時は一度も海に入らず、おばちゃんと話をして楽しい時を過ごしていました)。すごく懐かしいです。

彼も私も、決して「波にのまれる事」はあっても、上手に乗れることはありませんでした。これは事実です。

「Lトレーディングに合流してきた」???

私が彼の誘いでロコ・トレーディングの親会社のK社長と会ったのは、確か1996年の9月頃。K社長は東京の練馬で熱帯魚の卸売りで「成功」を収めていた人でした。その輸入関係をこなしていたのがロコ・トレーディングでした。
この会社を使って「新規事業を起こす」のが目的で、松田は確か6月頃に銀行を辞め、そこで働き始めていました。そしてその時来た話が「エビの養殖をマレーシアで行い、日本に仕入れて売る!」という話。「日本人とエビ」という本が出ている位なので、日本人のエビの消費量は、確か世界2、3位。莫大な市場でした。その話を聞いて私はもちろん興味を持ち、その後「ロコ・トレーディングで一緒に頑張ろう!」という彼の誘いで12月銀行を辞め、1997年1月からロコ・トレーディングの新規事業を、松田と共に任される事になりました。それから約8ヶ月の歳月「紆余曲折」しましたが、K氏との関係も崩れ、”我々2人で独立した事業を自分達の資金でやっていこう!”と決めて始めたのがタリーズだったのです。K氏からの援助は、たった4ヶ月で終了。この頃には、松田とK氏の間で対立が起きていて、K氏の会社の一室を借りてやっている我々の肩身はすごく狭かったです。それでもK氏は我々に「出て行け!」とも言わず、影ながら支えてくれていたような思い出があります。

銀行という大組織を飛び出して、「大丈夫、大丈夫!」なんて能天気に振舞えるほど私は大物ではありません。ですから、”コオロギチョコ”や”電磁波防止品”を事業のメインにしていた松田が、最後に「アイスクリームで勝負をしよう!」と言ったところを、”コーヒー事業”に転換させた、私の必至の方向転換(スタバやホブソンズで働き詰めて)でお分かり頂けるでしょう。

””しかし何故ここまで私をこき落としているのか?””

私は、1998年からニュージーランドに渡り、一度はアメリカを目指しますが、「オークランド(NZ)のCafe文化の素晴らしさ」を知り、”アメリカ行きは辞めて、ここに残ろう”と決めました。そして、タリーズが危機に陥った時に、その時働いていた(最終的にはマネージャーとして働いていました)SIERRA;シエラというCafeチェーンを日本の銀座に持っていこうと画策していました。1999年にワーホリを終え、永住権取得の為に日本に一時帰国した折、松田に会いました。(たかだか10分程度でしたが、この時の再会の事も何故か、「会っていない。」と嘘が書かれていますが。)そして「これからNZの永住権を取るんだ!」という話をしたので、もう私が日本には帰って来ない!「”真実”を知るものはいない!俺は成功した!」とでも思い、この本を出版したのではないかと思われます。

そして、当時の銀行の同僚やフェロー達、ひいては、私の友人や知人達もこの本を読んだり、彼がテレビ、雑誌等で「一人で立ち上げてきた成功話」をする度に、記憶に蘇る私、”ミッキー”を闇に葬りたかったんでしょうね。

先日の電話で”実感”しました。普通、こんな事を書いておいて「まだ本読んでなかったの?」「俺はいつかこうして、もう一度話がしてみたかった!」なんてシラジラしい電話の声は、明らかに私が「この本を読んでしまった事」そして、「私の口が開く事」を
恐れている感じに受け取れました。
SIERRA MT EDEN RD


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