タリーズコーヒー創業秘話 すべては一つの作り話から 4

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どうやって開業資金を工面したか?

この章を今年の7月の終わりに週刊文春さんから教えて頂き、
「ちょっと待て!」と私は怒りを感じるしかありませんでした。

どうやって開業資金を調達したか?

7千万円!という「重み」がどんな物だったのか?
この本には「私が」と松田がすべての資金を調達したかのように書かれています。

大嘘です!

正直、私も手元にあった資金は300万程度、彼は200万程。とてつもない数字の開きがありましたが、将来への可能性に掛ける想いは想像を絶していました。彼も親戚中を回り、彼の嫁さんの親戚をも当たりましたが、集まったのは5百万、そして知り合いの方だったと思いますが残りを借りてトータルで1千万程。
私も同様家族からの資金援助を依頼して1千万程しか集まりませんでした。確か機材をリース契約したり、デザイン会社経由で資金調達したり、初期投資を極力減らし、最後の最後には10万単位で人に借りたりして、何とか自分達で集めようとしました。しかし、まだまだ足りない。松田は「もうダメだ!」とうなだれて諦めかけていました。
私は最後の切り札である母名義の土地を「担保」に出してもらえないかと両親に頼み込みました。私には兄がいます。もちろん将来的には「相続」という事を考えれば「兄」の承諾も必要です。その頃、かねてからの糖尿病と痴呆症を煩っていた祖母の看病に両親も疲れきっており、とてもそんな事を頼める状況ではなかったのですが、「夢」に突き進む”若い魂”!「俺の人生に賭けてくれ!」という勢いで頼み込み、家族の大切な資産を担保に「資金調達」を実現させる事が出来たのです。
彼は一度もお願いにも来ていませんし、お礼にも来た事はありません。

但しこの「担保」「連帯保証人」という重責を、私がタリーズを離れても3年間”背負って”生きてきた家族がいたのです。

それが「私の家族」なのです。

何故?私はタリーズを離れたか?

2つの大きな理由があります。

?母の「アルツハイマー」(若年性痴呆症)

?さらに大きな理由として「共同経営」の破綻

この事業は2人の分業体制で成り立ってきました。彼は英語力を駆使してタリーズ本社とのコミュニケーション、輸入業務等。私は前述したようにカフェでの勤務の経験を生かし店舗の設計とコーヒーの技術、店舗サービス等店舗運営中心に分業体制でオープンまで突き進んできました。

本当に寝れない日々が続き(ほとんど一日中仕事でしたから)気力も体力も限界、でももうすぐ「夢」が実現する!という気持ちで一杯でした。プレ・オープン前夜のエピソードなのですが、確か夜中の1時頃ようやくすべての店舗の設備や清掃が整い、「ふー」と寛いでいた時の事です。
私が何気なく地下の客席に下りていくと、「嘘だろう!」って光景が目に飛び込んできました。なんと地下の客席の壁に何と何百という「ショウジョウバエ」がびっちりくっ付いているではないですか。新品のソファーや塗り立ての壁に。そして恐る恐るトイレ(実際お客様の使うトイレです)の電気を付けると何千ものハエが便器の隙間から湧き出してきていたのです。
疲れているなんて言ってられません!業者も含め、皆で手分けして夜中の銀座周辺のコンビニをあさり、何とかバルサンを10個ほど(それしか手に入らなかった)散布し、その後また清掃を行い、確か終わったのは朝の4時を過ぎていたでしょう。それから数時間後にタリーズは「産声」を上げました。

さて話は戻りますが、オープンして週休7日。休みなし。
「フェロー」には私がスターバックス時代に一緒に働いていた人に頼み込んで兼業、またはこちらで専業になってもらったり、松田の妹さん(当時青山学院の学生)とそのお友達、そして一般からも募集して「第一次フェロー」が誕生しました。スタバの子達やヒロミちゃん無くしてこの店は回らなかったです。
朝は6時にお店に着き、マシーンの立ち上げから当時デリバリーしてもらっていた銀座の「木村屋」のパンを並べ、狭い店なので下の客席からコーヒー豆や備品を取り出し開店準備。そして7時オープン。それから夜10時まで(週末は12時まで)営業し、掃除をして、ストック管理して・・・みたいな毎日。当初私が週4日、彼が3日と決めて始めましたが、彼は一日すらまともに来ませんでした。いつも遅れて、ひどい時には来ないし、電話をしても出ない、言い訳は全て「タリーズといろいろ交渉があるから」!?日本とアメリカは時差があり、朝から昼間は向こうはもちろん「夜」。つまりこちらの夜に向こうはやっと動き出すのに「一体何をやってるんだ?!」といつも私は彼に問いかけていました。残念な事も聞かされました。最悪なのは、彼が当時親しくしていた女性の事。(私が辞めた後タリーズでバリスタをさせ、後に役員にも・・・。)
人生を掛けた一号店のオープン直後、神経を逆なでするような”プライベート”を平気で私に「相談」したりしていました。こっちは寝てないし、疲れきって、お腹へって....ボロボロの状態だったのにですよ。「あいつは本当に何やってるんだ!!」彼に対する”不信感”が、私の中でどんどん大きくなっていきました。私は朝から夜まで働きっぱなしで、もちろん店に泊まる事も多かったのです。何とか家に帰っても、熟睡しないよう、ソファーで1時間足らず仮眠してまた出勤。(これも大きな原因の一つで離婚も経験しました。)

共同経営の破綻として決定的な出来事は、彼の不可解な行動です。何故か私にオープン以来「銀行通帳」を隠し続けたのです。彼が店に来ると、必ず「売上金」を回収していくのです。もちろん私が店を離れる時は、河童橋に備品を買いに行く時や両替に行く時くらいでしたから。給料を一切取らなかった為、食事といえば朝から陳列していた「木村屋」の売れ残りの”カピカピ”のパンを一日一食取り、夜、店を閉めてからコンビニのカップめんを食べたり、家に帰れた時は用意していてくれた食事を真夜中に取るくらいでしたので。(2ヶ月で15Kg痩せました。)
冒頭に述べたように、資金的な負担は私の方が担保も含めて多かったのです。でもそんな私は会社の会計状況を知るすべもなく、日々店舗経営に追われ、「共同経営者」という立場を全く無視されてきていました。

”何故、隠していたのか?”今でもまともな答えは貰えていません。(”忘れた”か、”忙しかった”の他は、のらりくらり。他の話題にすり替えたり。)但し、この事業から私が手を引くという手続きを終えた時、初めてコピーを渡されました。


もう一つエピソードがあります。
それはプレ・オープンの日(あのスタバの幹部達に睨まれる前日)プレスの方々や招待客、そしてお互いの両親等を招いてセレモニーを行いました。
その日、彼は社長気取りで立ち振る舞い、私は2ヶ月ぶりにあった母に異変を感じてはいましたが(すこしボケている感じだったので。)その時、私がメインバリスタだったし、注文のドリンクをさばいたり、とにかく”忙しく”すぐそこにいる両親へ感謝の言葉すら掛けられない状況でした。そしてあの社長気取りの男は、”一言”挨拶をした程度で、後は自分の家族と一緒に下の客席でコーヒー飲みながら話していたりして、「担保」提供者の母の事は”何とも思っていない”様子だった事が今でも悔しいです。
それから2ヶ月、私は彼に良いように”利用”された書類上だけの「共同経営者」、そう「雇われ店長;但し無給」だったのです。

そしてもっとひどい事に、彼はアルバイトの子達に「私」に対する誹謗、中傷をし始めたのです。私の彼に対する不信、不満は増幅し続けていきましたが、彼の妹も働いているし、その友達、ましてや”開店したばかりでトップ2人がお互いを中傷しているような事はあってはならない”と全てを心にしまい込んでいました。後に、この本に出てくる「ミッキーの勤務態度」で彼が語っていく事件に繋がっていきますが、これについては次に綴ります。
何度も言いますが、出資比率で考えれば「私」が代表者でもおかしくない状況だったのですが。”例の事件”が起き、私は店をも離れる事を決めました。

私は店を離れ、フランチャイズの動きを始めました。銀行員時代のお客さんに話を持ちかけ、何とか(自分だけの新しい事業を展開して行こう!)と。タリーズを、松田が銀座店、私はFCとお互い分かれて行く道が最後の選択肢だったのです。しかし彼は当時、猛烈に反対し、そして「もう、あいつとはやっていけない」と決別を決めました。

但し、そんなに簡単に「決別」出来る話ではありません。
担保と保証人。本来なら私がタリーズを離れる時に清算するべくものなのですが、もしそうするならば、タリーズを「潰す」しかありませんでした。何故なら彼には資産はありませんでしたし、担保に代わるものがなければ、「返済」を求められるし、仮に「潰れたら」お互いというよりも私の家族が大損!全て取り上げられてしまう訳ですから。

これは苦渋の選択でした。

残念ながら私は当時、タリーズ本社とコミュニケート出来るだけの英語力を持ちえていませんでしたし、通訳を雇うお金もないし、八方塞でした。自分のふがいなさを「呪い」ました。
もう一つの道しか残っていませんでした。

つまり「生かす」道です。債権者である私の家族を説得して、彼と契約書を結びました。

「紳士的」「常識的」な資金返済契約でしたが、口頭で「遅延は認めない」と念を押して置きました。でも実際2,3度遅延する事もありましたが、こちらからとやかく言った事はありません。本当に良い債権者だったと自分でも思います。

私はタリーズを離れ、両親の住む山梨に行き、暫くは母の病状を抑えるべく「穏やか」に暮らしていました。地元の「ドトール」コーヒーで店長として働き、私の夢の炎を静かに灯していました。母の状況は「回復」して来たように思えました。今思えば、30前後の一度「勝負を仕掛けた」男がこのままで良いのか?という気持ちで「良くなってきたように」思いたかったのかも知れません。
そしてタリーズの状況を毎月通知する”約束”でしたが、実際3ヶ月に一回来れば良いほうでした。数字は決して良いとは言えませんでした。

「このままでは、やばい!」

そう思って、単身ニュージーランドのオークランドへ「語学習得」(30歳を超えた私にワ−キングホリデイでいける国はそこだけ)とタリーズに代わる新たな商売を探す為旅立ちました。もちろん最終目標はシアトルでした。
ミルフォードビーチ



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